昭和四十七年八月三十一日 朝の御理解
X御理解第二十五節 「信心は大きな信心がよい。迷い信心ではいかぬ。一心と定めい。」
 大きな信心という事をいろいろな角度から頂いております。今日私は大きな信心というのは、大きな心でなされるところの信心と頂いて頂きたい。四神様の御教に、大海には鯨が住もうがとおっしゃる。竹の筒に水が溜まったような信心をするから、ぼうふり位のものしか、おかげにならんという、御教があります。竹の筒に水が溜まっているような小さい心。だから中にわくのは、ぼうふり位のもんしかわかんと。大海のような信心すりゃ、それこそ鯨の住むようなおかげにもなる、と。ですから私は大きな心だと思う。
 今日のこの、もう本当に、どの位あらゆる角度から、大きな信心という事を頂いたか知りません。今日は、そういう風に頂いて頂きたい。大きな信心とは大きな心で祈り願う。いわゆる大きな心で信心する。だからまず大きくなるという事。私自身が、大きく豊かになるという事がまず大きな信心だと今日は聞いて頂きたい。お互いが一つ鯨の住むようなおかげを受けなければなりませんから。目先目先のぼうふりがわく位のおかげでは、お互いが、我慢出来ません。折角無尽蔵に限りなく頂けれるおかげの世界におかげで足踏み込んだんですから、お互いが。
 ですから、そこんところのおかげの頂けれる、信心を身に付けていかなければなりません。迷い信心ではいかぬ、ともこゝに教えておられます。これがまた、いくら大きな心であっても、迷うたらつまらん。小さな信心でも絶対迷わんという人があります。そらもう本当に、只、御祈念、只、御利益、といったものだけで絶対狂わないという人があります。この人は豊かな、大きな心を持っておる、しかもこゝで信心でいよいよ鍛われていくなら、素晴らしかろうという人でも、迷いが起こって、スパッと信心を止める人があります。それはまたいよいよつまりませんが。成程こゝでは大きな信心と、同時に迷い信心ではいかん。一心と定めいとこう、おっしゃっておられる。
 昨日次々とお取次させて頂きました中に、この方は椛目時代まだ娘さんの頃、熱心に参って来とりました。そして大恋愛とでも申しましょうか、熱烈な恋愛をして、相手の方も立派な方でしたが、結婚致しました。それから、子供さんが出来る頃まで、お参りしておりましたが、それっきりお参りして来ませんでしたが、もう子供が高校に行ってると言うですから、随分長い間御無礼しておった事になる。ところが最近また、熱心に参って来とります。
 それがね、「親先生、おすがりせにゃ出来ん事が出来ました」と、言うてから一番初めに参って来られたのが、それでした。「どうしたんですか」と。それが先生、もう本当に、気が付きませんでしたけれども、主人に若い女の人が出来た。もう家にも帰って来ません。第一、家に寝泊まりしない。途中で泊まって来る。そしてそこから、勤めに行くといった状態。それで「しっかりおすがりしなさいよと、娘時代おすがりする事だけはしっかり稽古しとったんだから」と申しました。
 ところが二十日ばかりしましてから、もう親先生いよいよいけません、と言うその娘さんが乗り込んで来た。そして主人と三人で生活するというのです。もう浅ましい事ねと、私は言いました。本当に例えばですね。それはもう、支那あたりなら、何人でも同じ家にというようなそういうのはざらですけどね。そういう事の出来るのが、ひとつの力量と言われるぐらい、なんですから。けれども日本ではまあだ、そういう訳にはいかん。
 そしてから何日かしよったら、その娘さんがですね。「奥さんあゝた出て行って下さい。彼は私しか、愛しないんだから、あゝたおんなさったっちゃ出来んから、出て行って下さい」と言いだした。もうそれこそ、泣きの涙ですよね。もう浅ましい事だけれども。まあ兎も角一緒に生活させて頂きなさい、と言よりまして毎日参って来よりましたら、昨日参って来てから、もう本当に親先生おかげを頂きましてからと言うんです。それがその涙流しておかげ頂いたと言うけん。はあほんとおかげ頂いたと思いよったら、それは情けない涙のごたる風じやった。
 それがどういうおかげになっておるかと言うと、その親ごさんが、その娘さんを引き取って、もうちゃんと結婚させる事になった。もう急転直下のおかげでした。一緒に、そこにやって来てですよ。しかも三人で一緒に生活すると。そしてそういう生活を何日もさせて頂いた。もうそれこそ嫁さんというのはもう、それはもう、大変な難儀な事であったろうと思う。人ですけれども、そこをおすがりさせて頂きよったら、おかげを頂いてから、親ごさんが、その事を世間に恥られて、そして娘の子を引っ張って帰って、そして娘にも合点のいくところに、結婚させる事に決まった。そしたら今度は急に主人がですね、私に、ようしてくれる、親切にしてくれるようになりました。
 ところがその頃からですね、クーッとしだしたというのです。自分で、もう今度はですね、高校に行きます子供までが心配になった。お母さんどうしたそげん顔しとらんならんね、と言うなら、それだけおかげ頂いたのですから、これから幸せになっていくばかりじゃないの。どうしたら、そげんクーッとしとらんならんの、と言うて、主人も、優しゅう言うてくれます。子供もそげん言いますけれども。どうにも出来ん。それこそ寂しゅうて寂しゅうて有難涙じゃなくて、寂しゅうして悲しみ涙じやった。
 本当に人間の心ぐらい、デリケートなものはないですね。それはいかに、御利益、おかげという事が、これは極端ですけれども。そのように実を言うたら、つまらないものなのです。自分の願いが成就したという事は、そん時はおかげ頂いたと、神様のお働きには恐れ入ると言うて、おかげ頂いたと言うよりも。それで私は、後ろに、福岡の三男さんが参って来とりましたから、三男さんの話をしましてね。今頃からお母さんが、直腸ガンで、もう命は寸前、手術をしてから、こゝからですね。大便が出るように、手術をすれば、半年か一年位はもてるかもしれん。
 だからそういう状態だから、面会謝絶じやったのが、面会はどんどんさせてよいし、同時に、食べたい飲みたいものがあるなら、何でん食べさせなさい、という事でしたから、今頃から、そげんなったもんで、もう兎に角二百何十人と、押しかけるように、最後の別れと思うもんですから、お見舞いに来るほどしだったそうです。それで私がね、秋永先生の奥さんがその事をお届けなさいますから、手術をね、もう本人任せにしなさい。本なこつ言うなら、手術やらしてから半年一年長生きしてもらったからどうするか。苦しい思いをさせて、しかもこんなところから、大便が出てくるんなんて。そしたらお母さんも、死んだっちゃいいやと言いなさるから、それはよか幸い。
 そんなら神様に一心にすがるごと言うてくれんね、と言うて、御神米を沢山と、それから、御本部から、頂いとりました、お神酒がありましたから、一本ことずけました。それからね、大体お母さんはお神酒が好きなんですよ。それでお下がりのお神酒を一杯ずつ頂かれるごとなったら、御飯がおいしくいけるごとなった。もう一週間位したらですね、御飯が待ち長うなった。もう最近は、ずっと、あっちこっち、歩いて回りなさる。もう周囲の者は、あと何ヶ月後に亡くなんなさると思うとりますから、沢山の者が集まってくる訳なんです。もうこれには、お医者さんがたまがってしまわれた。もう本当に、たまがるごたるおかげを頂いとる。
 だからおかげと言えばね、○○さん、そういう、おかげですら頂ける。あんた方の事でも言うなら、もう命が助からんというのが助かるほどしの、おかげを頂いとるとばいと、何日前じやったの、向こうの親ごしが乗り込んで来て、しかもそのわがもの顔にして、彼は、あんたよりも私の方を愛しとる、と言うのだから、あなたは、こゝにおっちゃ不幸せじゃから、出て行って下さいとこう言う。もうそういう事が手の平を返すように、たったわずかの中に、です。相手の人は結婚という事になり、しかもその主人が今迄、それこそ、冷淡であった主人が、手の平を返すように優しゅうなり、子供達までが、お母さんお母さんという。
 そういうお母さんの不幸せを見てきておりますから言うてくれるのに、それに反して、寂しゅうなって、泣いてばっかりおる、と言う事は、どうした事だろうか。だからね、信心で頂くおかげというものは、その位のものだと。たとえこれが命を、例えば助かっておかげを頂いても、もう本当に無い命を助かったと言よるけれども。それはいつの間にか、消えていく、薄うなっていく。○○さんこゝから頂くのが本当の信心ばいと私が。
 今日のね、迷い信心ではいかんとおっしゃる。信心はね、こゝから生まれてくるのです。おかげおかげと言よる間は絶対迷うです。何故って、我思うごとばっかりはおかげ下さらんから、こげんしよるばってんおかげにならんと、迷いが起こる。だから迷い信心ではない、言うなら、一心と定められる信心。どんな事があっても、驚かんとか、迷わんとか、びくともせんという信心は、そういう例えばおかげを頂いたのにもかかわらず、心が寂しゅうなる、悲しゅうなるというそこからね、本当に自分の心の助かって、ない事を分からせてもろうて、いよいよ真の信心が出来る。これから本当の迷わんですむ信心が、出来る時だと、言うて。
 ほんなこて、お話は、ずーっと昔から頂いとりますけれども、只おかげおかげの方に幻惑されておる、惑わされておる。そしてそのおかげが、思い通りになってもうそれこそ、嬉しいばかり有難いばかりだと思うのにもかかわらず、心の中はそれとは反対で、寂しゅうなって悲しゅうなってくる。人間の心の中には、そういうものがあるのですよ。思うごとなってくると、その思うごとなってくる事が返ってイライラするごとなってくる。思うようにならんところを、まあだ一心が足りんのだ、これは、真が足りんのだ、と言っておる時には、有難いばっかり。
 そこからです。そこから本当の信心と言うか、これはもう余談ですけど、先程三男さんの話が出ましたから。あの三男さんのところのおばあちゃんのお届けをさしてもらった時に、三男さんはあげな風で、ふるぬーっか信心ですからねえ。お母さんの事じゃけん頑張らにゃと言うてん。はいと言よるけれども、時たまこゝに仕事の御用がある時ども参って来て、ただ大橋の方が一生懸命お参りしょる訳ですけれども。『そん時に頂いたのがですねえ。もうこゝにテープをするごつなってから、この方のテープは全部あの人がお供えをした、ですからね。その事を頂くのですよ。
 これは皆さんが本当に打ち込んだ信心させて頂いておる人達の場合なんかの、というものはですね。お取次のしよかことばさらか、ですね。もう引き当てがあるからです。もう本当にその通りでした。もう本当にたまがるようなおかげになっていきよる。だから本当に神様の、喜んで頂く御用という事は、やはりそれこそ、一心と定めたら続いていかなければいけませんよ。もうそれは、ずーっとお供え致しますから、朝の御理解を頂いて、夜の御祈念を頂いてですから、もうこう余っとるです。もうかつがつ貯まっていく。勿論貯まっていく為にお供えする訳ですけれども。
 だから他所あたりでは何回も何回も使うたり、十分でも二十分でも入れられますと、そこをまた、利用して入れるのですけれども。こゝの場合もう本当に勿体ないごたる使い方をするほどしの事をです、永年、これだけは僕の信心と思うとる訳でしょうねえ。そういう事が親の一生一度の親孝行が出来るという事は有難い事ですねえ。これは一心と定めた信心。もうこれだけはと、細々ながら、テープの事だけは、続けよると。それは一心と定めるから出来る。私共が大きなおかげが欲しい。それにはやはり、一心の信心もさせてもらわんならん。迷いの起こらん信心もさしてもらわんならんけれども、何と言うても、心が豊かに大きゅうならなければ。』
 これも昨日、これはたくさん使用人を使うておられます方ですけれども、もう本当に御神意のまにまにおかげを頂いておる方なんです。昨日一昨日、そこの一番上の幹部であるところの二人のいろんな事が表れた。一人はあげんしとるけれども、あれは、大将がおんなさらんとこうだと言うのを、聞いとったけれども、そんなこつがあるもんか、と言よったが実際自分が目の当りに見た訳です。ほんなこてこの人は、こげな裏表があっただろうかと、思うてそれこそ、幻滅を感じた。それからもう一人この人に、一方を任せてあるその人がです。それも前からずっと、その聞いてはおったけれども、大きゅうなれ大きゅうなれでその、神様にお願いされる程度でした。ところが昨日のはちっとばっかり大きかった。ちっとばかりこす気がある事が分かった。
 だからこれはもう、しかも上に立っておる二人、他の従業員の為にも示しがつかん、という訳なんです。ところが二人は、そういう訳で仕事は、表だけではあろうけれども、その表だけでも出来るという事は素晴らしいですよね。だからそこを買わにゃいかんと私が申しました。そしてそんなら、裏の方だけを専門に、おかげ頂く分だけはおかげ頂きゃえゝじゃないの。それこそ、自分のもんであるばしあるごと、ちっと、そんならお金でも給料が安かもんじゃけんで、足らん時は、ちったそげな風な。それが自由がきくもんじゃけん。『その人は、そういう事も人間あろうなと、私が、そう言よりましたら御心眼に頂きます事がね。
 ニンニクですね。ニンニクが二つぶら下がっとるところを頂きました。そして、ようと見よったら、それは男の大事なところです。私はそれを頂いてから、本当にそうだと、私自身思いました。ニンニンと言えばです。臭いもの、けれどもあれは力になるもの。睾丸と言えば、いよいよ産みなすところの働きをする一番、大事なところ、言うなら男の急所とも言うところ。これは○○さん、これはいっちょこげな素晴らしいおかげじゃから、それはもうほんなこて、ぐのみせにゃいかん、よと。そして、ね。それでは、この人達がおかげ頂かんから、信心にでも導かせて頂いたら、段々分かってくる事でもあろうから。そしてそれが段々、おかげ頂いていったら素晴らしい事だと言うて、話した。』
 そういう事をしておるからですね。例えば一方の方ではこげなこつしよるけんで、人よりかちった頑張らにゃ、と言うて頑張る訳です。これは信心しよってもそうです。やはり合楽の方達の場合なんか、はそういう意味で、私がそうですから、皆んなある意味合いであくが強いです。皆さんの信心は。もう一番つまらんとはですね。もう毒にもならにゃ薬にもならん、ちゅうごたるとが一番つまらん、と私は思うです。ところが合楽には、そういう人が本当に少ない。もう毒にもなりゃ薬にもなるという人達が、もうこれは、私をはじめそうだったから、やっぱり集まって来る人達もそんな感じが致します。
 だからそういう人達がです。毒を変じて薬にする、ほどしになった時に、もう人の真似の出来んおかげが受けられるとですよ。あっちは人物で評判もえゝというごたるとは、本な修行が、出来んです。そういう人は、そこが人間。してみるとあくの強いという事も、おかげ、あくが強いから、悪に強い人は、善にも強い。または多情仏心とも言う。とても、あの人は多情だ、という人程、仏心の強い人です。
 だからそういうものがです。本気で、例えばその人が命がけで、改まろうという時、事に精進するようになったら、それは素晴らしい事になるです。こゝでは、馬のお知らせをいやしい心とおっしゃる、人間のね、足やら力やらでは、どうにもいけない、ところがあるのです。こゝだけは馬に乗ってつっ走らにゃというところがあるです。そのいやしい心があるからこそ、です、神様あいすみませんという、心も人より強い訳です。また神様に対して、こういうお粗末な事になった、と思うから、人の真似の出来んごたる修行でもさせて頂いて、お詫びでもさせて頂くという事になる。
 もうこの人は棒にも箸にもかけられん、ごたる人という人ほどです、神様がいよいよ使いなさる事になったなら、素晴らしい働きを、表わすようにもなる。言わば内容を持った人なんです。ですから決していやしい心、きたない心、またずるい心、こすい心、まあいろいろ様々、神様がお嫌いになる心をお互いが持っておる。しかもそれをね、自分で分かっておる。もうそれをね、事柄じゃけん御の字つけて御事柄ちゆうごとなったら、おしまい。もうそれをですね、当り前のごと思うたらいかん。けれどもそこんところをです。だからこそ、こげな修行も出来るという事になりますから、神様の方へ、それこそもう肉迫して行く訳です。
 例えて言うとね、火がワリワリ起こっとると致しましょうか。それに乾いたフキンを持って来て、側さえ持って来たら、ボーッと燃え上がってしまう。ところがそんなら、じゅくじゅく滴の出るごと濡れとるとば、持って来てみなさい。もう火の側まで持って行ったっちゃ、燃え上がらん。火を神様と致しましょうか。神様に近ずけれるものを持ってる訳です。乾いておるというのはね、神様には近ずけん。もう私どん悪い事はせんけん、神様やらそげん拝まんでん、と。確かにそうです。
 もう正直の頭に神宿る、と言うけんで、わざわざ神様ば拝まんでん、私だんもう悪い事せんからと、いうような人はもう神様には近づかれんです。いろんな難儀な問題が起こる。その難儀な問題がです。ぎりぎり押し詰めていくと、自分自身の心の、例えば貧しさとか、汚さから、起きておるんだと分かってくるとです。そこにめぐりの自覚というものが生まれてくる。だからめぐりの自覚に立った人ほどがです。神様に近づける、すがらねばおられませんもの。それでも救われたい助かりたい、という念は強く持っておるのですから、いよいよ神様に、近づいて行く事が出来れるものなんです。まあその事は、昨日私がお取次させて頂いたまゝを、二人共それはもう、この人達がおってくれれば結構ちゅうごたる。いろんな意味でさばけておるし、仕事も出来る訳です。
 けれども一人は裏表があり、一人はこす気があると、うすうす聞いとったけれども、実際それを主人が見た時にです。ちっとばかり頭にきた。心にもう治まらんごとなった。首にしょうかどうしょうか、というぐらいのところ迄考えるようになった。そしたら神様は言うならば、ニンニンで作った睾丸。私は本当に、これは素晴らしい御理解だと思うた。ほんなこて先生、また私は大きゅうなられますと、言うて喜んで帰られましたがね。もうそれを知らん振りしておれれる。人がどうか中傷しても、もうよかよかと言うておれれる、という事がね、もうその人はいよいよ、心が大きゅうなり豊かになった証拠です。
 そしてその心で祈ってやる、その心で導いてやる。私は大きな信心とはね、大きな心、という風に今日は聞いて頂いた。大きな心とは、そういうような事、大海のような信心とは、そういうような信心だと。自分の思うようなもんばっかりは流れて来ん。それこそ、嫌なものでもどんなものでも、流れ込んでくるけれども、それを黙って受けておるというものが、大海の信心。だから鯨の住むようなおかげになってくる。
 しかもそれで、迷うたらつまらん。そこでです、迷い信心ではいかん。そんなら迷わんですむ程しの信心というのは、御利益御利益言うて、御利益頂いたところからは、生まれてこない。先程の三角関係の方の例をもって申しました。それ程しのおかげを頂いておっても、人間の心の中にはそれが、優しゅうされればされるほど、寂しかったり悲しかったりすると、こう言うのである。どうにも出来ない、神様にお願いして心のお繰り合わせを願う、他はない。成程、形のお繰り合わせより、心のお繰り合わせを願え、とおっしゃるが、心のお繰り合わせを願う。そこには、真の信心より他にはない。しかも、一心と定めい。こればっかりは、と決めたらね、それを貫くという事が一心。
 それを杉山さんの例を取りましたですね。もう十何年間、言うなら合楽で使われるだけのテープは私がお供えをします、と、こういう訳なんです。そういう信心がです。もう言うなら医者も見放したという人間が助かっていく程しの、おかげになってきたんだという事ですね。一心、一心とは恐ろしいもの、だから、神様だけ。勿論御用を通して、神様でありますけれども。この人の場合は、神様に打ち向こうて、拝む一心ではなくてから御用に一心。
 これだけはと、心に一心をかけたというのが、杉山さんの例だと思うですね。今日は大きな信心とか、迷い信心ではいかんとか、一心と定めいと言ったような事を、只今のような、昨日お取次させて頂いた、人達の話から聞いて頂きました。どうぞ。